HITOSAJI

小さな南国のコミュニティ、カオハガン島のくらしのひとさじ

自分のモノを手放したとき、人の心は豊かになっていく

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カオハガン島の夕焼け

 

こんにちは!

カオハガン島のyoshieです。

南の島から、心身を豊かに過ごすためのくらしのひとさじをお届けします。

 

カオハガン島で暮らし始めて、“モノ”への興味が変化しました。そもそも、カオハガン島に住むと決意したときに、いろんなモノを思い切って手放してきたのがきかっけです。

日本で生活していたころ、販売員として過ごしてきた8年間は、モノを販売する職業でした。お客さまに商品をお勧めする一方で、自身の物欲もどんどん大きくなり、所有するモノがたくさん増えてしまいました。販売員の職業病ですね。

しかし、所有しているモノをカオハガン島に全て持って行くことができないと思うと、大事にしていた家具やキッチンツール、食器、そして厚手の冬服など、自然と手放せました。もう日本で使う機会がないであろうという決意もそこにあったからです。

そんな決意をするということは、人生の中でなかなかないことだとは思いますが、わたしがモノを手放してみた体験を通して、与えられたことをおはなしさせていただきます。

 

CONTENTS

 

 

水道、電気なしの生活

島での暮らしは水道、電気がないという点で日本と大きく違います。といっても、宿泊施設には水道が引かれており、電気も5時から10時頃までは発電機を動かすことで使うことができます。わたしたちが仕事で使用しているオフィスも電気が付くので、パソコンを使って仕事ができるようになっています。

普段の家での暮らしはというと、発電機が稼働する6時ぐらいから10時ぐらいまで電気が使えます。夜中は真っ暗で過ごすこともありますが、暗闇すぎるといろいろな虫やらなんやらにモゾモゾと襲われることがあり、ほんのりと明るいロウソクや懐中電灯は必須です。

生活用水は、雨水を利用しています。屋根に樋を付けて、雨が降ったらそこを伝って水瓶に入るようになっています。水瓶には網状の蓋を付けて蚊を防いでいるものの、開けたり閉めたりすることで蚊が中に入ってしまい、水の中にはボウフラがウヨウヨとわいてしまいます。気にせず使うのだが、見てしまうとちょっと気持ち悪い。見えなくてもいいこともあるということなのでしょう。雨は天からの恵み。雨が降るときは、どっと降ります。水瓶がすぐに満タンになり、溢れる水が勿体ないので、20L入のコンテナーに水瓶の水を移動させます。嵐のような夜でも、オットはビショビショになりながら作業をします。オットがビクとも動かない日はわたしが作業。夜の雨はヒンヤリと冷たいのです。それでも、雨水はわたしたちにとって大切な自然からの恵み。

 

物欲がそぎ落とされていく

カオハガン島の外に出かけたときに、ショッピングモールなどに行くと、欲しいモノが少なくなったなぁと実感します。日本では必要だった化粧品や洋服など、必要以上のモノを買うことがなくなりました。欲しいという気持ちが沸いてこないのです。欲しいモノがあっても、「これをカオハガン島で持っても、すぐ砂や粉塵で汚れるのだろうなぁ。」とか「すぐなくなっちゃうんだろうなぁ。」というネガティブな要素があるのも確かです。

ですが、日本にいるときに感じていた「モノを持たなければならない」という感覚がなくなったのも事実です。お出かけするためにたくさんの洋服が必要ではないし、誰かを家に招待するのに家具や食器が羨ましがられるものでなくていいのです。むしろ薄汚れている方が、わたしにピッタリだと気付いたのかもしれません。家に招待した日本からのお客さまはギョッとしていますが。笑

 

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シェアすることの大切さ

島民はモノをシェアするのが得意。悪気はないのですが、人のモノを勝手に持ち帰ることがあります。島民からすると、「ちょっと借りるね。」ということなのですが、借りる人は、心の中で「借りるね。」を唱えたまま、持ち主には伝えず、そのモノ自体返さないこともあります。いや、返そうとは思っていても、忘れている、もしくはあとで返そうと思っていたというのが永遠に続いているという感じ。

それに対して、持ち主は、怒ることもありますが、たいていは、「あ、なくなった…。仕方ない、これで代用するか。」と、いう感じで、執着は少ないのです。さらになくなったモノの代替え品を手作りしたりするからすごい。私は自分のモノがなくなると、「自分のモノがなくなった!!」と大騒ぎして、その気持ちを処理するのに島民の2倍は時間がかかるでしょう。まだまだ未熟だなぁと感じる瞬間です。

 

 

与えることとは?

そもそも、カオハガンの島民は「これは自分のモノである。」とう感覚が薄いのです。兄弟や夫婦同士で同じ服をシェアして着るのは当たり前だし、赤ちゃんの口がよだれでいっぱいになっていたら、迷わず自分のタオルや服で拭いてあげます。ある人がパンを食べていたら、友だちにも分けてあげています。お菓子を食べていたら、子どもたちが「ちょっとちょうだい。」とおねだりしに来ます。ある人がボートでセブまで買い物に出かけるとき、同じく出かけたい人が便乗してそのボートに乗り込みます。シェアすることは与えあい、助け合うこと。

「人は与えることでしか精神を成長させることができない。」ということを学びました。わたしたちが置かれている状況もすべて与えられたものです。自然の恵みをいただいて、水浴びをし、食事をし、心地よい風の中眠りにつく。与えられた肉体を使って行動し、人から与えられた言動に、笑ったり、泣いたり、怒ったり。自分が持っているもので、何一つとして、与えられずに、自分で手に入れたものなんてないのですよね。

 

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人と人との境界線がなくなるとき

わたしを含め、日本人は自分のモノと他人のモノとの区別が強いと感じます。その意識が強ければ強いほど、多くのモノを求めたがるし、自分が所有しているモノがなくならないか心配になります。

日本で暮らしているとき、溢れんばかりのモノに囲まれ、多くの選択の中から自由に選ぶことができるという環境に、なんだか疲れてしまったわたしは、モノを所有しすぎない島民に一種の憧れを感じたのかもしれません。モノを所有しすぎなければ、なくなる心配もないし、どんなにささやかなモノでも、与えられることにいつも感謝できます。

なにより、自分のモノと他人のモノの境界線がなくなったとき、自分と他人との境界線がなくなるのです。自分を愛するように他人を愛する。シェアするということは、人と人との境をなくすことに繋がっていきます。人と人との境がなくなったとき、心の豊かさを感じずにはいられなくなります。

 

さいごに

カオハガン島で生活していると、たくさんのモノに囲まれていなくても、内側からやってくる満たされた感情が押し寄せてきます。それは、突然やってくる内からの喜び。見えないなにかから祝福されているような感覚です。

自然に囲まれた生活と人の温かさ。すべてがまあるく調和したコミュニティに住まわせてもらえて、ただ感謝の日々。

今、わたしが体験しているカオハガン島でのシンプルな生活は、たくさんの気づきと学びを与えてくれています。それは、心も身体も豊かにするものなのです。